隣の芝生は青く見える
あなたは、だまされていませんか?
ひとを“羨ましい”という人は、結構いらっしゃいます。
中には、お世辞である場合もありますが。
「じぶんも、あの人みたいになりたい」
「じぶんも、あの人が持っているものが欲しい」
そんな風に口に出すひともいれば、内心思っているひともいます。
こわいですが、「なんで自分にないものをあの人はもっているんだ」と、恨みを持つひともいます。
隣の芝生が青く見えている人は、読んで、確認してみてください。
冷静にものごとをみれば、ひとのものなんて欲しくなくなります。
『他者が持っているものを欲しがる』
これは、こどもの頃から表れます。
オモチャで楽しそうに遊んでいる子から、オモチャを奪う子供。
この行動の“みなもと”は、なんなのか?
わたしは3通り、たどりついています。
ひとつめ。
『たのしく遊んでいるのが気に食わない』
自分が手に入れられないオモチャを手にして、楽しくしているのが気に食わない。
だから奪ってしまえ!
=『嫉妬』
ふたつめ。
『たのしく遊ばせたくない』
その子を楽しくさせるオモチャを奪って
その子がかなしむ姿が見たい
その子の目をオモチャではなく自分に向かせたい
“相手の子に好意をもっていないか”
“相手の子に好意をもっているか”
いずれにしても、オモチャではなく
=『相手の子に興味がある』
みっつめ。
『その子のように自分が楽しくなりたい』
そのオモチャを手にすれば、
「遊んでいた子供のように、自分が楽しい気持ちになれる」
と、おもっている。
このケースの場合は、手にして遊び始めると、「あれ?たいして面白くないな」と、オモチャを早々に手放します。
もちろん、「これ、おもしろい!!」もあるので、一概にはいえませんが。
このケースが
=『隣の芝生が青く見えている』
『となりの芝生はほんとうに青いのか?』
まずは、これ。だまされているひとが多いとおもいます。
実際に体験しました。
周りの人から言われたことがあるのです。
「いつも楽しそうで、悩みなんてなさそうで、いいねぇ~」
→「そうかもしれませんねぇ」笑って返しました。
「Hikaruさんの生活がうらやましい!」
→「う~ん、おススメはしないけどねぇ」ほほ笑みで返しました。
“一秒でも早くこの世を去りたい”と、毎日おもっていた頃のことです。
じぶんでは、芝生はほとんど枯れている状態、のはずなのに!
こんなわたしでも、そんな風に思われていたのです。
“苦”を顔には出しませんからね。
顔で笑って、こころで泣いて、です。
周りの方は、真実を見抜けないのです。
そして!!!
わたしが手にしているものが“苦痛を伴い得たもの”ならば?
だれかが願い望んだときに、裏に隠れた苦痛までも『引き寄せて』しまうかもしれません。
実のところ、これを一番心配しています。
『となりの芝生がほんとうに欲しいのか?』
これを、自分のこころに問う必要があります。
子どものオモチャの例でいえば。
- “その”オモチャが欲しいのか
- “たのしい気持ちになりたい”のか
大抵は、“オモチャ”ではないのです。
苦労して、オモチャを手にしたところで、自分にとっては楽しくないオモチャかもしれません。
「自分が欲しいものは、これではなかった」
苦労した道のりや、失った時間を後悔して、オモチャを捨てます。
大人になってからも、いますよね。
“オモチャ”ではなく、他者の“パートナー”を奪いたがる人が。
なぜ、自分が奪いたくなるのか?
こころの中の『真実』に気付いていない。
じぶんのこころと、向き合えていないのです。
『つまり、こういうこと』
となりの芝生は、実は、あなたが望む青い芝生ではない。
たとえ、望む芝生に“似ていた”としても、ニセモノの芝生をみているだけ。
そんなニセモノをみて、“うらやましい”?
「じぶんがほんとうに望んでいるものを“認識”するために、“見せられた”芝生なのだ」
と、おもいませんか?
『じぶんの芝生を青くしよう』
あなたの心が
ほんとうに
望んでいるのは
なんですか?
それがわかったなら
その種を撒きましょう
みずをやり
光をあてて
肥料をやり
種を育てるのです
いつか
青々とした
あなたが望む芝生に
育っていますよ