仙人よ 山を下りてこい

むかしから、そんなことを口にしておりました。

 

仙人というのは、“山の中で悟りを開いた方”という認識がありました。

“悟る”というのは、それだけでスゴイことだと思うのですが、なんでそんな方に対して「山を下りてこい」と、生意気にも言っていたのか。。。

 

山には自然界の厳しさがあり、その修行たるや、想像を絶する、壮絶なものだとおもうのです。
自然界には自然界の修行があります。

サバイバルが得意な方、趣味の方は、楽しいだけかもしれませんけどね!

 

人間界には人間界の修行があり、それはそれは厳しい修行の場であります。

人間界は、雑多な方たちが住む世界であり、いろいろな“しがらみ”“ルール”も存在する世界であり、わたしにとっては『苦行』でした。

仙人の方が厳しい自然界の中で悟りを開いたのなら、“悟った”ことを
『人間社会の中で活かしてみせてくれ』
『人間社会の中で悟った仙人のままでいられるかい?』
※文章にすると上から目線的ですが、そんなことはありません。言葉遣いが悪いだけなんです...

雑多な人間、雑多な環境の中でも“仙人”でいられるのが、本物の“悟った方”だとおもうのです。

 

『悟り』って、シンプルだけど、深い

悟った、と思った瞬間に、次の扉が垣間見えて、

「あれ?まだだったか~~~!」
「悟りにゴールなんてあるのかい?」

って、ものだとおもうのです。

「悟った!」といっても、頭や感覚だけで感じただけで、実践でいかしきれていなかったり、ね。
悟ったことを忘れて、ふりだしに戻ってしまったり、ね。

まぁ、こんなことを、悟っちゃいない人間が言うのもなんですが...

 

この世は“学び”の場であるが故に、繰り返される、この世の『転生』。

学びが終わるのは、いつのことになるのやら...
学びが終わるというのは、おそらく、“悟りきった”状態なのでしょうからねぇ。

 

『学びが終わった方は、いるの???』

スピリチュアルな方々の中で、噂されていることがあります。
「イエス様は、転生が最後の人かもしれない」
たしかにね。
ご本人はおっしゃっていましたよ。
「わたしは、みなさんと同じ、人間です」って。

 

.....イエス様ほどにならなきゃ、ダメなの?
それって...ほど遠すぎる~~~~~!!!

 

この世に生きる
仲間のみなさま

イエス様にゃ
ほど遠いじぶんたち

 

じぶんのいる場所から
点にさえも見えない目的地に
呆然と立ちすくんだり
ヤル気を失ったり
そんなのは
一瞬だけにしときましょう

 

自分の目の前に現れた課題を
コツコツと
クリアしていきましょう

 

なぜなら
『千里の道も一歩から』

長い道のりも
歩いていれば
いつかは辿りつく

 

長い道のりの中で
よろこび
いかり
かなしみ
たのしみ

彩りゆたかな花々を
愛でながら
一歩一歩
歩いていこう

 

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日々、生きてる

Posted by Hikaru