平和への祈り
軍事侵攻が始まって1週間。
ウクライナの方々、ロシアの方々が、1日でも早く、平和な日常へと戻れますよう、祈ります。
亡くなられた方へのご冥福を祈ります。
大切な方を亡くされた、ご家族の方々、ご友人の方々の心の痛みが癒されますよう、祈ります。
今回の軍事侵攻によって、戦争を望んでいるのは、ほんの一握りの人間であり、多くの方は平和を望んでいることが分かりました。
戦争は、仕掛けた方も仕掛けられた方も、いずれも被害があり、始まりから終わった後でさえ、苦しみや悲しみしか残らないのは、皆さんもご存じのことだからでしょう。
人の命が失われることは、天災、病気でもあることです。
人口増加による地球の悲鳴を緩和するための人減らしは、天災だけでたくさんです。
なにより、天災と人災には、大きな違いがあります。
人災は、人がやめることを選択することができる。
ひとの命を奪う方法ではなく、平和な解決方法を探していただきたい。
平和を切に願います。
そして、私は思うのです。
個人の『争うこころ』を自身でなだめて、癒してほしい。
平和な解決方法を考えてほしい、と。
争いは、国家単位になると『戦争』となり、多くの人々は望まないのが分かりました。
でも、個人単位になると、多くの人が望まないはずの争いが、いとも簡単におこっているのです。
国家単位でさえ、個人単位からの延長だと、私はとらえています。
- 貧しい人々の中には、家族の中でわずかな食料を奪い合うこともある
- 学校では、自分の身を守るために“いじめられっこ”をまつりあげる
- 会社では、自分の評価を上げるために、上司に高く評価されている人のウソ情報をばらまく。仕事の邪魔をして足を引っ張る
- 会社では、社長や上司が権力をふりかざして、社員にムリを強いる
- 社会では、“気に食わなかった”と当人だけの正当理由(実際は不当)で、暴力がふるわれる
- 社会では、金銭に困っていたからという理由で、詐欺によって他者の金銭を奪う
- 自分がイライラしてるからと、八つ当たりする
自分だけのことを考えて、される側のことは気にとめないし、想像もしない。
挙句、相手が傷を負ったり死を選んだりすると、“こんなことになるなんて思わなかった”という。
私は、かなしみとともに、若干の苛立ちさえ、かんじます。
いまはまだ、日常でおこなわれている戦争があります。
世界の平和を望むのならば、日々の平和も望みませんか?
それが、世界平和につながるのだとしたら?
もしも、自分が相手だったならと、想像してみませんか?
そろそろ、平和にむかいませんか?
おなじ地球で、おなじ“とき”をいきる、ささえあう仲間なのです。
ひとりひとりのこころが、平和を創り出してゆくのですから...。