助けになっている、のかな?
目の前に、困っている人がいたら、どうしますか?
もちろん、急を要する場合は、とっさに体が動くことでしょう。
すぐに手助けしてあげましょう!それでいいんです。
今回の「どうしますか?」は、急を要さない場合。
精神世界の視点から、書かせていただきます。
※『あふれる愛で...』←精神世界の関連記事です。よろしければ読んでみてください。
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若い頃、目の前に困っている人が現れると、「ツラさを取り除いてあげたい」という感情、衝動が、まず自分の中から発生しました。
具体的な対処法の知識があれば、お伝えしました。
痛みなどの場合は、自己流ヒーリングをしました。でも、急な処置が必要な状態ではない限り、わたしはヒーリングを選びませんでした。
なぜなら―――――?
「個人が乗り越える課題として、痛みや病気が表れたのかもしれない」
若い頃の私は、“すべては、当人が課題のために創造した”という前提を既に知っていたので、エネルギーの介入を避けておりました。
自分の感情だけで、勝手に治してしまったら“良かれと思って、余計なことをした”という事態になってしまうからです。
だから、「これは自分の感情だけなのか?天が癒してあげてほしいと伝えてきているのか?」と、毎回立ち止まり、悩みました。
※知識の提供は、実行するかどうかは本人が選択可能なので、良しとしました。
青年期は、開き直りました。
「だぁ~!もう、面倒くさい!自分の目の前に現れたということは、“癒していい”と判断します!」と、天に宣言しました。
それからは、自分が癒したいと感じるかどうか、にだけ焦点をあてました。
この過去を振り返りますと、青年期の宣言は、完全な間違いではないのですが、丁寧さに欠けます。
ひとりひとり、その都度、奥深くにある真実をみつける、わたしのための訓練だったかもしれないのです。
天とツーカーになる訓練、だったかもしれないのです。
この訓練をクリアしていたら、もっとヒーリング能力が高まって、多くの方をきちんと救えるヒーラーになっていたかもしれません。
若い私は、学びを、自由意志をもって拒否してしまったのですねぇ。
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さて、わたしはどうすればよかったのでしょう?正解は???
『毎回、天に確認する』のが、正解でした。
人生の課題は、当事者も他者も、はっきりわかることはマレだと思います。
わからないものは、天に介入していいかどうかを確認する。
なぜなら、人生の課題を取り上げてしまうと、当人には命の危険さえあるそうです。
金銭に例えると、こんなかんじ。
「働けど働けど、日々の生活に必死」という人を気の毒に思って、資金援助した。
“働く、生活するという苦労と感謝を経験する必要がある、設定だった”場合。
→金銭にゆとりができて自堕落な生活になり、感謝する心も得られず、生きる意味を見失ってしまった。
“必死に働く中で、共に生きるパートナーと出会うための、設定だった”場合。
→生活にゆとりは出来たが、出会いは延期され、孤独な日々に苛まれてしまった。
どうですかね?
助けて良かったんだか、悪かったんだか...、になっちゃうってことです。
さて、こんな風に病気も金銭も、モノは違えど、本質は一緒ですからね。
『助けたい』感情のまま、突っ走ってはいけない。
感情だけだと、自分主体の、ただの自己満足なのです。
たとえ、相手が「たすかった」と感じたとしても、『魂の成長のために生かされている』という、本来の生きる目的から、脱線しているかもしれないのです。
これでは、目先だけの助け、自分の助けたいという感情を満足させるためだけ、自分が気分良くなりたいだけの行為であって、相手への思いやりに欠けている、のではないかな?と。
本来の人生の目的を知った上で手助けができたとしても、結果は“やりたくてやった”自己満足ではあります。
ただね、自己満足の種類が違うように感じませんか?
自己満足や自己衝動を優先して行動するのではなく、相手優先で行動するからです。
先に相手ありき。
ここが、おおきな違いです。相手の目的に沿った形で、適切な手助けができると思うのですよ。
どうしたらいいのかな?
わからないときは
『天の神さま』に
きいてみましょう
『天の神さま』が
よく分からないときは
自分のこころの奥底(=内在神)に
たずねてみましょう
きっと
こたえが見つかりますよ