へんな子、おかしな子
『へんなこ』『おかしなこ』と、言われたこと、言ったこと、ありますか?
幼少時代―――――。
童話のカセットテープ(CDやDVDがなかったんです笑)『ジャックと豆の木』を聴いて涙していた私に、母が言った。
「“ジャックと豆の木”で泣いてるの~?変な子だねぇ!」
涙した理由は...?
一生懸命に豆の木をひたすら登って登って、『ようやく願いが叶う!』かと思った瞬間に、スタート地点に戻されたジャック...。
「なんて、可哀想なんだろう」
望むものを手に入れるために、“これでもか、これでもか”と必死に努力を重ねて、目の前に望むものが現れた、途端に、『なかったこと(=無)』に、されてしまうんですよ?
こりゃ、悲劇でしかない。
『ロミオとジュリエット』と、展開が同じなのですよ? 恋愛モノじゃないだけでね。
ね?涙せずに、観れないでしょう?
当時、3~4歳くらいだったと思いますが、ジャックに感情移入して聴いていたので、なおさらツラかったです。
“ニンジンを目の前にぶら下げて走らせた”お馬さんには、目的地に到着したら、ニンジンを食べさせてあげないと、かわいそうじゃないですか?
母の視点から、とらえてみましょう。
『ジャックと豆の木』は、幼い子供が読む童話であって、泣くようなストーリーではない。
それなのに、なぜか泣いている。理解ができない。
すると、これしか脳に浮かばない。
『変な子=おかしな子』
自分にとって理解ができない人は、“変な人”“変わってる人”として、判断するのです。
「親からも理解されないなんて...」と、感じる人も少なくないと思います。ですが、所詮、自分以外は他者なのです。
血が繋がっていたとしても、一緒に暮らしていたとしても、『こころ』『考え方』『意識』『嗜好』は、人それぞれ。違うのです。
だからね、理解されないのは、『あたりまえ』のことなのですよ。
もしも、いま、周りに自分を理解してくれる人がいない方。
「理解されない」って、落ち込まなくても、大丈夫!
理解してほしい人に理解されないのは悲しいけれど、ね。
『自分も相手を理解しているか』って言ったら、できていないかもよ。そうは思いませんか?
違いのある人たちがいて、そこから学べることがある。
たとえば、さ。
「私は理解してあげられる人になりたいな」とか。
「これって特別なものだったんだ!自分発見!」とか。
ただ、それだけ。
生きていく中で、多くの人々と出会う機会があります。
そしたら、共感してくれる人も現れるから。
大丈夫!
大人になった、今なら言える
母よ
私にとってはあなたが
『へんなこ』