もしも、あなたが...だったなら。~神さま編~
想像力を働かせてみてくださいね。
これができたなら、きっと、理想の自分がわかることでしょう。
最近のニュースをみていると、自分さえ良ければいいの?と感じることが多くなりました。
未熟なわたしは、怒ったり、呆れたりしてしまうことがあります。
ふと、よぎります。
神様という存在は、この世をどのように見ているのだろう?
『あなたが神さまだったなら、どう感じますか?』
神様は万能ですから、きっと感じるだけではありません。人々を導くために行動に移すことでしょう。
『あなたが神さまだったなら、どうしますか?』
未熟な人間である私は、「ええい、天罰じゃ~!思い知れ!」と、罰を与えてしまいたくなりますが、こりゃ、いかんのです。
相手のためを想って行うのが、神様のやり方。
神さまは、みんなに愛があります。
常に、救いの手を差し伸べているワケです。
手厳しい“罰”でさえ、「その身をもって、体験せよ。それが己の魂を磨くであろう」という、 なんとも厳しい“愛”なのではないかな。
不動明王を思い浮かべると、想像しやすいかも?
火焔をまとい、剣を持ち、憤怒の表情をしています。
でもね、不動明王さまの像と対面するとき、その表情からは“かなしそう”と、いつもわたしは感じるのです。本来は、とても、やさしいお方なのだな、と。実際、やさしいのですけどね~笑
さて、ここからが本題です。
悪人でさえ、苦しいことがあると「だれか、助けて!」と、思うものです。
当人でさえ、“だれか”というのが、“かみさま”だと認識していないこともあります。
望んだ“だれか”を手配してくださるのは、神様なのにねぇ。
さぁ、神さまのあなたは、どうする?救いの手を差し伸べる?
心ない他者は、“救いたくない”と、感じることもあるでしょう。
わたしは、迷いが生じますけども...。
それでは、ね。
『あなたは、じぶんを“救いたい人間”だと、思いますか?』
じつはこれ、わたしも“イタタ”です。他人ごとでは、ないのですよ。
もしも、「じぶんは“救いたい人間”ではない」と感じるならば、“救いたい”と感じる人間に、なればいい。
ひとはみな、未熟だからこその波※、もあります。
そんなときは、波が少ない人間に、なればいい。
※【例えば】
ゆとりがある時は、他者への思いやりに溢れている。
ゆとりがない時は、自分優先で我欲に溢れている。
前者のときは“救いたい人間”。後者のときは“救いたくない人間”。
この“救いたい人間”というのが、あなたが理想とする、あなた自身です。
意識しているうちに、理想の自分に近づいているのではないかな?
残念ながら、この世において、自己実現に完成はない、と思うのです。この世に生きる人はみな、未熟だからこそ、存在しているのですから。
それでも、ね、未熟であっても、自分自身がじぶんを認められる、とおもうのです。
好きな自分、とまでいかなくても、嫌いな自分、ではない。そして、いつか“好きな自分”になっている。
これは、生きていくのに大切なのではないかな?
かみさまにとって
あなたも
救いたいひと
なのですよ
それでも
「救いたい人間になる」
あなたの善に向かい
魂の導きを生きることは
あなたにとって
意味のあることでしょう
そうして
あなたは
純粋な本来のあなたを
取り戻せるのですから