自分さえ良ければいいの?

『自分がするのはいいけど、他人にされるのはイヤ』は通用しません。

 

自分では気付かずにひとに迷惑をかけてしまうことってありますよね。
その場合は、気付いたら『ごめんなさい』がすぐに出ると思います。
“自分さえ良ければ”は、気付いていてもやる“確信犯”です。

 

『自分さえ良ければいいひと』に迷惑をかけられて怒っている方。
もう怒らなくてもいいですよ。
あなたが仕返しする必要なんて、まったくないです。
あなたが手をくだす価値もない。
そして
『仕返ししてしまうと、それがまた自分に戻ってくる』
だから、やめましょうね。

やられた人がやり返すよりも、もっとおそろしいことが“自分さえ良ければいいひと”には、待っているんです。
それをこれから書きますからね。

 

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ある朝の通勤ラッシュの電車内。
座って寝ていた会社員の携帯電話がけたたましく鳴り響いた。
会社員が勤める会社の最寄り駅に到着する直前のこと。
“目覚まし時計”の音でした。

さて、この会社員、じつは私の後輩でした。
わたしは尋ねました。「なんでバイブにしないの?」
会社員「バイブだと気付かずに起きれないじゃないですか」
わたし「ヘッドフォンにしておくとか」
会社員「ヘッドフォンしてるとジャマで熟睡できないから」
わたし「周りの人たちに迷惑だよ」
会社員「大音量にしないと起きれないんだから、仕方ないですね」
わたし「君が熟睡してるときに大音量の目覚ましかけられたらどうなの?」
会社員「今迄いませんよ。とにかく、自分が起きれれば、それでいいんです」
わたし「...迷惑をかけずに起きれる方法を考えなよ」
会社員「ないですね~。あったらやってますよ」
わたし「...」
ウソだろ。いま平然とウソついただろ

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手段を検討することを提案しても、考えるのが面倒なのでスルーでした。
ちなみに、この青年は明るくて、社長をはじめ上司たちの評価もいい好青年でした。
ひとには多面性があるんです。

 

これは、わかりやすい事例だと思います。
『他の人たちに迷惑がかかろうが、自分さえ良ければいい』
という思考。

この意識をもった大人たちが子供を産み育てていくのですから、現代のいじめ社会もなるべくしてなった、当然の流れなのでしょう。

 

でもね、
『自分さえ良ければいい』思考は、本人にとっても危険なのです。
なぜかとういうと、
『自分がしたことは自分に戻ってくる』から、です。

後輩の例でいえば、
『後輩が熟睡している最中に、隣の人が大音量の目覚ましを鳴らした』
のならわかりやすいでしょう。

それでは、

もし、財布をスラれたら?
もし、自分の子供がいじめにあったら?

財布を盗んだ人は、“遊ぶお金がなかったから”という自分さえ良ければいい思考。
いじめをする人は、“いじめないと自分がやられる”という自分さえ良ければいい思考。
まさか、財布をスラれた原因が大音量の目覚まし時計にあるだなんて思わないでしょう。
まさか、自分ではなく子供にかえされるとは思わないでしょう。

自分のまわりに“自分さえ良ければいい”人ばかりが集まったらどうなるでしょう。
おそらく、争いが絶えませんよね。
もしくは“同類”として許せるのでしょうか?
いいえ、きっと許せはしないでしょう。

 

これがおそろしい『天の理(てんのことわり)』なのです。
“因果応報”とも、いいますね!

まったく同じ方法で返ってこないことが多々あるのです。
巡り巡って、当人が“いたい!!”と感じることで、自分のしたことが戻ってきます。
人間が仕返しをしたところで、
『当人が“へ”とも思わない』場合もありますが、
『当人が痛みを感じる仕返し』を、天はします。
もしも「何もなくて平穏だ」と感じていたら、もっと怖いです。
いつ、大きなしっぺ返しがくるか分かりませんからね。
チリも積もれば山となります。

 

“自分さえ良ければいい”思考の方は、
この世の肉体を脱ぎ捨て、あの世に行った時にも手痛い目にあいます。
この世では聞こえなかった、迷惑をかけられた方々のこころの声や想念までも感じます。

『うるせえんだよ!!』
『ふざけんな!』
『なんなの?アイツ!』
『困ったヤツもいたもんだ』
『ヤレヤレ、あきれるねぇ』

それらを緩和するのは、この世での心からの謝罪と改心による行動です。

 

“自分さえ良ければいい”思考の方が、
『どうすればいいのか』というと...

周りの方のことを“もしも自分が相手だったなら”と想像すること。
相手の立場になって考えること。
相手の気持ちを考えるのは、“相手のため”ではなく、実は、“自分の魂の学び”なのです。

“自分さえ良ければいい”という考えを“改め”にこの世に生まれてきたのだとしたら?
自分に対して“気付けよ自分!”という手痛い仕組みを設定してきているかもしれません。
『魂が、学びたい、この課題をクリアしたい』
として設定した出来事なのだから、
ぜひ、チャレンジしてほしいものです。

 

天の理は、
『自分がするのはいいけど、他人にされるのはイヤ』は通用しません。

 

自分が
イヤなことは
ひとにしない

 

自分が
してほしい
と思うことを
ひとにしてあげよう

 

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日々、生きてる

Posted by Hikaru