やりたくて やっている
これを基本にしていると、ストレスが減りますよ。
いままでお会いした人の中には、親切なことをしてくださったあとに、「○○してやったのに!」という人も、多くいました。
この言葉、わたしは好きではありません。
『まごころからの行為、ではなかったのかな?』
『見返りを求めての行為、だったのかな?』
『不愉快だけど、やってくれたことなのかな?』
「申し訳ないから、やらないでくれ」ともおもうし、「依頼してないことをして、交換条件を求めるのかい?」ともおもいます。
『してやったのに』って、“言うほう”も“言われるほう”も、つらいんじゃないかな?
わたしは、ほぼ、自分がしたいと思ったことしか、しません。
ひとのために良かれとおもってやることも、『自分がしたくて、していること』。
自らが選択して、行っていることだからです。
自分の体調が悪かろうが、残業続きの寝不足でフラフラでも、
「困ってます」
「だれか助けて」
という声(こころの叫びも含めて)が聞こえれば、自分よりラクそうな人の声でさえも、自分ができることなら、手を貸します。
それを見ている友人からは、「自己犠牲だよ」と、言われることもありますが、自分の意識では、“犠牲”ではないのです。
『やりたくてやっている』から。
※わたしが言うのもなんですが、ムリは禁物。やりたいときにやりたいことができるように、自分を癒し、ゆとりをつくっておきましょう。
手を貸してもお礼も言わず、さらには、砂までかけるような事をしていく人もいます。
それを見ている友人は言います。
「なんだよ、アイツ! 礼も言わず、失礼な奴だな!」
わたしは、あまり気にしません。
お礼という見返りが欲しくてやっているのではなく、『やりたくてやっている』から。
ただ、お礼を言われると、『余計な手出しではなかった』という確認が取れますので、安心します。
砂をかける人には、
「迷惑だったのかな?」
「余計なことして、悪かったなぁ」
「もう、手出しはしません」
それだけなのです。
なかには、親切を“利用しようとする人”もいます。
わたしは利用されるのはイヤなので、前もって分かれば、手は貸しません。
後に分かれば、「“人を見る目を養いなさい”ということか」と捉えて、その人には、二度と手を貸しません。
それだけです。
文頭に“ほぼ”といれたのは、会社員として勤めている時は、仕事上、権力者からの指示は、イヤでも受けます。
日常生活の中で、イヤでもやることはあります。
こういった部分までも、『やりたくてやっている』のだと思えるようになれば、とても素晴らしい生き方になるのは、分かっています。
できないわたしは、まだまだ“未熟者”なのです。
精神世界では、イヤなことも、不愉快なことも
『自分がうみだしている』=『自分がやりたくてやっている』
と、位置付けられているのですがね。
このように未熟な自分でさえも、
『自分がやりたくて、やっている』
という基本があると、相手の反応に対して腹を立てるようなことが一切なく、随分と気がラクなのです。
“やらされている”
から
“やりたくて やっている”
に 変化すると
こころが
とてもラクですよ