泥の中に咲く、蓮の花のように
『泥中の蓮(でいちゅうのはす)』は、有名な言葉です。
お釈迦様が蓮(はす)の中にいる仏像も、ありますねぇ。うつくしいですよね。
この言葉が、どのような意味をもつのか、多くの人がご存じのことでしょう。
この世は
汚れた煩悩の世界
そのような
汚れた世界にいても
汚れに染まらず
清らかな心で
生きましょう
泥の中から咲く蓮の花は、その花びらに一滴の泥もまとわず、うつくしい花を咲かせます。
その蓮の花をひとの生きる姿に例えたものです。
「みんなそうだよ」泥のささやきに騙され、「自分さえ良ければいい」道を選んでしまう人もいます。
泥の中で、もがき苦しみ、悶々とした日々を送る人もいます。
これも、泥が花についてますよね?心に苦しみ(泥)をまとうのですから。
「いっそのこと、泥にまみれてしまった方がラクかなぁ?」
いいえ、蓋をしているだけで、内奥にあるこころ(真我)は、気付いている。
そして、いつか、真我が耐えられなくなったときに、表層意識(自我)に顕れ、後悔と共に自分を責めることになるでしょう。
他者のせいには、できないのですよ。
どんなに他者の誘いがあろうとも、それに乗るか断るかは本人次第。
精神世界とは、源はじぶんの世界ですから、全ては本人の責任なのです。
どのような選択をするかを、天から(ほとんどは、自分の魂が設定しているんだけどね!)、試されています。
わたしは、もうひとつの意味を感じています。
ひとには、多面性があります。
そのうち、二面性を表す言葉は思い出せました。
“天使と悪魔”
“良心と悪心”
“ジキルとハイド”←え?これ、ちがう?いやぁ、ひとの本質を捉えていると思いますよ。
ひとりの人間の中に、いくつもの意識が存在するのです。
え?あなたは一面だけ??...うっそだぁ~。
Aさんが、ある人には、(1)つっけんどんなイヤな態度をとる。
Aさんが、ある人には、(2)とても親切な愛情あふれる態度をとる。
もしも、多面性を感じないとしたならば、(1)と(2)のどちらかしか、見ていないのかもしれませんね?
ひとは、だれに対しても同じ態度ではありません。
ひとは、機嫌の良いとき悪いとき、もあります。
ひとは、理性的なときもあれば、感情的なときもあります。
ひとは、いろいろな想いをもつものです。
もう、わたしの感じる“もうひとつの意味”を察知していただけたかな。
『己の内にある、泥にまみれず、清く生きましょう』
この世においても
あなたを
見失わないでください
本来のあなたは
とても
清らかな魂です
あなたは
あなたという花を
育てています
そして
あなたは
花を
咲かせることが
できるのです
それはそれは
とても
美しい花ですよ