罪を憎んで人を憎まず
これって、むずかしい?
ひとを憎まない難しさの原因は、人を通して罪を認識するところにある。
罪を発現させた人間だから、憎くなる。
罪を犯したことを反省しているならまだしも、平然と、さらには、嬉々としている人をみると、「コンニャロ~」と怒りを感じるものです。
わたしは神でもなく聖人でもありませんからねぇ。
「自業自得だ、思い知れ!」そんな黒光りをすることだって、若い頃はありました。若気の至り、かな?キラーン
相手を憎むとき、その憎悪の念が存在します。
じぶんが発した悪意のエネルギーを身にまとって、じぶんにどんな影響があるのか?
果たして、その憎悪は対象者に届くのか?
ちゃんと届いたとして、その後に対象者が憎悪ボールを誰かに投げるかもしれませんね?
もしも、対象者がはねのけた場合は、どこにいくのかな?
一度生みだされた憎悪は、あなたが忘れてしまっても存在し続けている。
だれかが謝り、許しを乞わない限りは消滅しない。
忘れた頃に自分の憎悪に出会ったならば??
いやぁ、こわいですねぇ。
相手を意識するとき、相手にエネルギーが流れています。
不愉快な相手に活力となるエネルギーを分け与える?
わたしは嫌だなぁ。
これぞ、無駄遣いってやつでしょう。
おなじことをされても、不愉快に感じる人もいれば、まったく気にしない人もいます。
それは、受け取る側のとらえ方の違いということ。
だとするならば、“ナニ”が罪と表現するほどの感情に至らしめているのかな?
この“謎”の解明こそが、やるべきこと。
謎解きをしている限り、相手にエネルギーは与えません。
これはですね、“自分の魂の成長のため、出来事が用意されている”という精神世界の視点です。
じぶんを知るため。
「こういうことをイヤだと感じるんだな」
どんなじぶんでありたいかを知るため。
「じぶんは、こんなことしないぞ!」
過去からのトラウマを乗り越えるため。
「前にもあったな...、今度こそクリアしてやる!」
理由は、人それぞれ。
相手は自分のために天から派遣された役者です。
何年もそれぞれの人生を経験して、準備を重ねてきました。罪を犯すべく、罪を受けるべく。
重要なのは、罪というものと、行為をおこなった人を切り離す、ということ。
謎の解明にいそしみ、それぞれが役割を演じたことを知ると、ひとを憎むことはなくなります。
あなたが不愉快に感じているひとがいたならば、心の中で伝えましょう。
“もう、その役を演じる必要はありませんよ”